Archive for the ‘医療・介護・共同組織’ Category

連載 看護と介護 15の物語 ⑫

2017-06-09

患者さんを信じたその先にみえたもの
~背中を押す勇気とタイミングの裏にあったものとは~

藤代健生病院(弘前市) 3病棟 看護スタッフ一同

藤代健生病院は岩木山を望む藤代地区にあり、岩木川沿いにある精神科単科の病院です。「地域に根ざした医療」を胸に、患者様がその人らしく生活していく事をこの地で支えること40年になります。病院も長い歴史がありますが、治療を頑張っている患者様方にも様々なストーリーがあります。
今回は、その中の一人のAさんのお話を紹介したいと思います。

Aさんは、高校卒業後に統合失調症を発症した、60代の女性です。保育士の資格を取り仕事に就きましたが、上手くなじめずに半月で退職することとなってしまいました。家業の跡取りとしての結婚問題に悩み、家出をしたことから今回の入院生活は始まりました。入院してから今年35年目で「超」長期になっています。人生の半分以上を病院で過ごしているAさんは、入院中にご両親との死別を経験し、家業は他の姉妹が継いだために実家に戻れない状況です。入院生活が長くなるにつれ家族とも疎遠となり、Aさんが居ないことで家族が上手く回ってしまっていました。私たちは、そんなAさんと家族のつながりを切らさない為にも家庭訪問を継続してきましたが、現在は唯一の肉親である妹の年1回の面会を待つのみとなっています。このAさんの振り返りから思ったのは、「この入院生活35年間は、Aさんも看護師も『安心できる居場所』を求め、必死に向き合った期間だったのではないか」ということでした。

Aさんは入院当初から、幻覚・妄想と身体化障害により身体の痛みを訴え、唐突な感情の爆発と攻撃をみせ、個室・多床部屋、と転室を繰り返していました。「身体の痛みを通してしか他人との関わりを持てず、それがAさんなりの精一杯の表現と接触の仕方であり、不安になると暴力や怒鳴り込みといった退行的(※1)な手段に訴えるようだ」と当時の看護チームは考えました。人なつこい応対のときもあれば、周りの関わりを全て遮断して受け入れようとする気配すら見せないなど、コミュニケーションを上手くとることができないAさんですが、歴代の担当看護師の根気強い関わりから「自分と相手」という2人の関係を築く力は維持されていました。

その後は精神症状が安定せず、Aさんが好きな喫煙や買い物など嗜好の時間を保障しながら、「他者がいる刺激に慣れてもらうこと」と「決められたルールを守ること」を目標に根気強く関わっていきました。Aさん自身も決められた枠組みを理解し、看護師と共有していくことで「時間が守れたね」「洗濯が出来たね」などという成功体験を積み上げていくことが出来たのだと思います。もちろん、調子が良い日だけがあるわけではなく、叫んだり拒絶したりする日もありました。そのような時は不調を自覚し言葉に出来る様に関わり、理由を明らかにすることが出来なくても「(今日は部屋から)出ない!!」と選択出来ることも増えていきました。

このような関わりを繰り返すこと6年が経過しました。暴言や叫びはあっても暴力をすることはなくなり、個室から多床部屋へ再度チャレンジしてみてはどうかと看護チームは考えましたが、なかなか本人が転室を受け入れません。

自分自身を支えるために定位置にしっかりと根を生やしたAさんには、転室は「今まで育てた安心できる場所を捨てる事」であり、見捨てられるような不安や自信のなさが強かったのだと思います。自分のスタイルへの固執や変化への極端な拒否がAさんのコーピングスタイルであることは分かっていましたが、Aさんにはきちんと創生していく底力があることを信じていた私達は、Aさん自身にそのことを伝え、徐々に大部屋へとステップアップしました。予想どおり大声を出したり、言葉にならない罵声をあびせたりしながらの部屋移動でした。それでも、新たなベッドへ移ってしまうと自ら私物のレイアウトを始めるのです。ライオンの子育てのようですが、患者自身の持っている力を見抜き、信じ、タイミングをみて背中を押してあげることも大切な看護の一つなのだと実感しました。

大部屋への転室は精神面での安定と成長を感じたことで踏み切りましたが、次にAさんに必要なのは「行動範囲の拡大」と「対人関係のスキルの習得」です。

この頃のAさんは、院内の売店に週2回買い物に行く事が習慣となり、それ以上を希望することはありませんでした。竹のように根を深く張り、安心を定位置に求めるAさん。あわよくば地下茎が自然に病棟外に伸び、新芽が出てくれないかという期待と、自信の回復を目的に、病棟での作業療法と朝の病棟集会の参加を始めました。担当看護師との約束事を介しての参加でしたが、「〇〇さんと約束したから」と彼女は大切にしている印象であったと関わった作業療法士は振り返っています。枠組みに一旦填まってしまうと出来てしまうことから、参加回数も増えて行き、それが日常となりました。自ら安心感を積み上げていくことで自分の自信につながったのだと思います。

また、この自信は次へと繋がっていき、「小グループ」に興味を示しました。「小グループ」とは、病棟内で行なっているグループ活動で、同程度の患者様を小規模に集めて、地域へ退院して行く為に必要なスキルや知識を獲得することを最終目標としたものです。そこで院外で買い物をしたり、施設や作業所へ見学にいったり、軽食を作って語り合ったりします。ですが、Aさんは院内活動には参加しても、院外の活動はなかなか踏み切ることか出来ませんでした。「退院するつもりはないよ」と言っていたAさんですが、宿泊型自立訓練施設を見学しにいったことがあります。「きれいでいいとこだったよ」と担当看護師には話すものの、やはり退院は受け入れられないようでした。年単位の関わりでAさんのモチベーションを高めていく事、継続的な支援をしていく事、Aさんに合わせた内容で支援していく事を病棟で確認していきました。

今現在も同室者と適度な距離を保ちながら、多床部屋に定着することが出来ています。現在は病院の敷地内にある宿泊型自立訓練施設への退院を目指し、作業療法棟での作業療法参加と最低週1回の入浴を継続して行うことを目標にAさんは頑張っています。また、それを担当看護師が中心となり看護集団で支えられるように私達も頑張っています。

今後も、Aさん自身のペースで安心できる居場所を保障しながらも、この「超」長期入院という長いトンネルから抜け出して、新たな世界で安心して生活していくことができるように支援していきたいと思います。一節ずつ成長する竹のようにゆっくりと伸びやかに、撓(しな)る余裕も持ちながら、Aさんが地域で生活していくことは、そう遠い未来ではないのかもしれません。

 

※1【退行】 不満なことが起こった時、過去の幼い頃に戻り満足を得ようとすること。表現や行動が未熟になる。

連載 看護と介護 15の物語 ⑪

2017-04-26

母として、妻として… そして家族として

健生病院(弘前市)  高橋 栄子

看護師生活の振り返り

看護師になり、病院勤務、老人ホームや訪問看護を経験してきました。日々、患者様から学ぶことが多いと感じます。病気に苦しむ患者様をお世話する立場にいながら、逆に励まされることが多々あります。

患者様との出会いの日々

現在は病院勤務をしています。7年前、外科勤務をしている時、38歳の肺癌の女性の患者様との出会いがありました。彼女は保育士をしていましたが、長引く咳で最初は「風邪かな?」と思い受診をしたら、肺癌の末期と診断され、1年前に仕事を辞めていました。専業主婦になり、9歳・12歳・15歳の三人の娘さん、大柄の優しい旦那様と5人で暮らしていました。彼女は物静かですが、笑顔を絶やさず、温かい家庭を築いているという印象でした。

彼女は息苦しさが続き在宅酸素療法となり、外科外来に通院して化学療法を受けていました。後に自宅で身の置き所のないくらい呼吸苦が出現して入院となりました。胸腔内にドレーンを留置して、水を抜いてからは、呼吸苦が落ち着いてきたため、入院での化学療法を継続しました。週末には御家族の面会があり、にぎやかで笑いの絶えない家族団欒の一時を病室で過ごされていました。

会話がお互いの支え

彼女の長女は丁度、春に高校入学したばかりで、私の方もその頃長女の高校受験を控えていました。何気ない日常生活の会話が弾む場面もあり、受験生を抱える親の心得を気軽に聞ける間柄になっていました。彼女は子供の受験を経験した先輩として、私に高校の授業時間や授業料のこと、学校行事など何でも教えてくれました。話をしていると会話に夢中になり、ゼーゼーしてしまう場面もありました。

私は娘の受験前で気持ちが落ち着かないことを相談すると、彼女は「親があれこれ心配しなくても、子供はちゃんとやっているよ。」と、その痩せ細った身体でありながら力強い彼女の言葉にこちらが励まされました。

病状の転機

ある日、私が深夜勤務していると、彼女からのナースコールがありました。急いでかけつけると、彼女は全身性のけいれんを起こしていました。脳に腫瘍が転移しているため、けいれんを起こしたのです。すぐに処置室に移動し、主治医の指示で、けいれんを抑える点滴を開始しました。私は彼女の手をぎゅっと強く握りました。私は彼女の不安な気持ちを感じながらも「大丈夫だよ、そばにいるよ。」というのが精一杯でした。点滴して、けいれんは落ち着きました。看護スタッフで話し合い、翌日から2人部屋を家族で過ごす場所として提供することになりました。

願い叶えたい

彼女は病状がいくらか落ち着き、ガンマーナイフのため秋田の病院に行きました。治療が終わり、こちらの病院に再度転院してきた後は、体力が低下して長距離は歩けずにいましたが、「ラーメンが食べたい」と、希望されていました。

体調が良い日を見計らい、酸素ボンベ持参で家族と共にラーメン屋さんへ外出して、帰院した彼女は「いつも行くラーメン屋で、ラーメンを食べてきました。疲れたけど、楽しかった。」と話され、彼女に笑顔が戻りました。

小学5年の三女は体も成長して大きくなってきているのですが、まるで保育園児のように彼女の膝の上に乗り、くすぐりあったりしてじゃれあっている姿が印象的でした。私が「まだ小学生だし、甘えたいところだね。」と話すと、彼女は「お姉ちゃんにちゃんと妹たちのお世話するように話しているから…」と、近いうちに自分の人生が閉じること覚悟していると感じた瞬間でした。時々、彼女の御両親の面会があり、高齢の両親が娘の世話をする機会も作れたと思います。

冬休みになると、子供たちは彼女のベッドを真ん中にして川の字でベットサイドに横になり、旦那様も泊まり込み、彼女に付き添いました。

家族と過ごす時間

食欲が徐々になくなっていく彼女のリクエストで、旦那様がカップ焼きそばやバナナ、納豆巻きなどを差し入れしてくれました。面会の際は慣れない手つきで彼女の身体を拭いたりしてくれました。彼女が旦那様の服が裏返っていることに気付き息をゼーゼーしながら「服、服」と旦那様に話しかけます。 旦那様にお世話をされながらも、しっかり者の妻の一面もうかがえました。

彼女は「クリスマスは自宅に外出したい。」「年末は自宅に外泊したい。」と強く希望されていました。

そんな矢先、「胸がトクトクする。息が苦しい。」と訴えるようになり、モルヒネの持続注射が開始されました。彼女の願いを叶えたいとスタッフ間で在宅療養の方向で話し合いが始まりましたが、モルヒネは減量できず、「胸がトクトクするって言っています」という旦那様からのナースコールがあり、頻回にモルヒネの調整が必要でした。

主治医から旦那様にこれから起こりうることとして、病状的に化学療法は見合わせ、心臓や呼吸が苦しくて、今後はベッドから起き上がることはむずかしく、このまま病室で過ごすことになり、看取りの段階に入ったとお話がありました。

彼女は数日後には、声掛けにも閉眼がちとなっていきました。訪室した時に旦那様がずっと彼女の手足をさすりながら話しかけていました。旦那様は「子供たちには反応するんです。手握ってとか、足をさすってとか。急に起きて、子供たちを見てまた眠るんです。夫には反応しないのにね。子供たちの力って強いですね。こうやってそばにいることができて、本人も幸せだと思います。」それを聞いた看護スタッフは、必死で涙をこらえていました。スタッフ間でも本人の状態だけでなく、旦那様の疲れはどうか、子供たちのメンタルはどうかという情報を共有し、ケアにあたりました。お話を傾聴したり、個室を使って頂くことで最後までご家族の時間を大切にして頂きたい旨を看護長がお話ししました。

彼女は十二月下旬になり、経口摂取も難しくなり、寝たきりの状態となりました。家族でクリスマスを迎えた後、旦那様や子供たちが見守る中で、年末に静かに息を引き取りました。

私がちょうど日勤で出勤したタイミングでした。旦那様は私が出勤したのを見つけ、私の方にきて「今、家族そろって妻を見送ることができました。妻は日頃、高橋さんが一番話しやすかったと言っていました。」と泣きはらした顔で話されました。その言葉が一番心に残っていますし、看護師として少しでも役に立てたと思うと私の誇りです。

これから先、夫婦で子供の成長を見届けるはずだった彼女の無念を思うと心が痛みます。治癒の見込みのない重篤な病を罹った絶望感や悲しみは計り知れません。でも、病室にいながら家族と共に過ごした時間はかけがえのない時間を提供できたのではないかと思います。大切な人と共に限られた時をどう過ごすか、痛みや苦しみを和らげるために家族の愛や寄り添いはとても大切です。また、患者様を看取った後はデスカンファレンスなどをして、対応したスタッフの想いを話し合うなど医療者側のグリーフケアも必要です。

つながっていく思い

患者様は一人一人違った環境の中で暮らしています。家族・兄弟・友人のようにはいきませんが、できるだけ患者様に寄り添い、信頼関係をつくれるような看護をこれからも目指していきたいと思います。

連載 看護と介護 15の物語 ⑩

2017-04-19

ターミナル期にある患者の想いに寄り添って

~一人のフォークシンガーからの事例~

藤代健生病院(弘前市) 2病棟 看護スタッフ一同

Aさんの入院まで

ある秋の日に、一人のフォークシンガーが星空へと静かに旅だった…

遡ること5か月程前、混雑した外来に身の丈185cmもある一人の患者がやってくる。長い髪と黒い革ジャン、ジーンズに黒いブーツという出で立ち。名前を呼ばれて診察室に入り、病状をぽつりぽつりと主治医に話す…

病院の名物フォークシンガー    

Aさんは、精神科病棟である当院に30年来通院している50代の男性です。夕陽の綺麗な海沿いの街で3人兄弟の長男として生まれました。成績優秀で進学校に入学し大学進学を果たしました。大学時代、統合失調症を発症し、やむなく中退。その時、後の「家族」とも言える当院と出会います。

若くして統合失調症を発症したAさんは、最初、家族のいる自宅から通院していましたが、遠方のため通うのが難しく、市内のアパートへ移りました。独りでの生活に不安になると入院し、落ち着くとアパートに退院するといったことが30回以上も続きました。アパートへ訪問に行くと部屋にいる事が少なく、近くの喫茶店に行き、ケーキとコーヒー一つで数時間もBGMに浸る方でした。「おそらくは人恋しさに喫茶店に行っていたのではないか?」と当時の事を知るスタッフは話しています。不安感を主訴とした度重なる入院も、もしかしたら人恋しさあってのことだったのかも知れません。そんなAさんの一番の趣味はアコーステイックギターを弾くことでした。吉田拓郎の大ファンであるAさんのアパートには若い頃から集めたというギターや楽譜がありました。その為、訪問した際はAさんの弾く一曲を聴いてから出迎えてくれるというエピソードがあるほど、ギター好きだったようです。

入院生活中は他の患者さんやスタッフに壁を作らず、大柄な体系から時折見せるほっこりした表情が、例え妄想の世界に浸っていても、何故か憎めない方でした。オープンスペースで革ジャンをはおり、ギターを弾き歌う姿が印象的で、昼夜を問わずバラードから時にはハードな曲まで演奏していたものの、不思議と他の患者さんからの苦情は少なく、聴衆に囲まれていることもあったAさん。寡黙で取っ付き難い風貌の内側に垣間見える優しさが人を惹きつけていたのかも知れません。そんなAさんに、大好きなギターを弾けなくなる病魔が襲ってきます。

忍び寄る病魔・・・

お腹に違和感を感じ外来受診時に主治医に何気なく相談。外科受診を勧められて精密検査をした結果・・・告げられた病名は『縦隔腫瘍』、しかも末期でした。手術適応でしたがAさんは疾病否認が強く、頑なに外科受診を拒否。緩和ケアを目的として、通い慣れた当院に愛用のギターを持って入院することになりました。のんびりベッド上で過ごし、好きなタバコを吸い、顔見知りの患者さんとのたわいもない会話。たまに支援センターの方と喫茶店へ行ったり買い物したり・・・穏やかな日々を過ごされていました。

しかし病状は徐々に悪化していきます。食欲が落ちて明らかに痩せが目立ち、日中でもベッドに横になる時間が長くなっていきました。

食が取れなくなったAさんへの病棟での取り組み

Aさんらしい終末期をどのように支えていくべきか、毎日のように議論を重ねました。

医療チームとして、看護師として今自分に何ができるのだろう・・・。

全身の疼痛があるにもかかわらず、ポータブルトイレの使用ではなく、トイレまでの付き添いを希望し、スタッフと手を繋いでトイレにいくことが度々ありました。多くを語らず介助もあまり求めないAさんでしたが、繋いだその手から苦しさや不安が伝わってきました。

病院食に手をつけなくなり、今何が食べたいか尋ねられたAさんは低い声で「親子丼食べたい」と答えました。売店には置いてないし、家で作って来るわけにもいかない。外出して食べに行ける状態でもない・・・苦肉の策だが病院の食堂に頼んで、病室まで運んで来ることはできないのだろうか? 相談を受けた食堂スタッフの対応は早く、病室に運ばれた親子丼をみたAさんはゆっくりと起き上がり食べ始めました。その後、ラーメン・カレー・野菜炒め等々、腫瘍による腹部の圧迫もあり食べられる量はほんの少しでしたが、食堂スタッフの協力を得て、嬉しそうに食べるAさんの顔を見られるようになりました。

楽しい音楽の時間

朝の会でミニコンサートを開きたいとAさんと計画しましたが、体を動かすことが苦痛となり実現はできず。かわりに病室で「ギターが重い」と言いながらも弾いていました。ある日のスタッフは一緒にギターセッションをしたり、吹奏楽経験をもつスタッフは、Aさんと音楽の話に花を咲かせたり、楽譜を一緒に眺めたりするなど、少しでも苦痛の軽減に繋がるようにケアしていきました。起き上がることもできなくなったAさんに吉田拓郎の歌を歌って聴かせたスタッフもいて、音楽の話題になるとAさんは自然と笑顔になり、口数は少ないものの自身の思いを語ってくれるのでした。

会いたい人は?

だれか会いたい人はいないか尋ねると、Aさんの口からこぼれたのは弟の名前でした。入院中、家族の名前をあまり言わずにきたAさんでしたが、自身の死期を悟ってか、この時は言いました。Aさんの希望を叶えたいと家族に連絡をとると、Aさんの弟が車で2時間かけて面会にきてくれるようになりました。数年ぶりに会った弟と写真をとり、家族の時間を作ることができたようです。

「高齢となった母にも会いたいのではないか、また何十年と帰っていない実家も見たいのではないか」という声もあがり、Aさんへ何度か問いかけましたが、「いや、いい。」という返事しか返ってきませんでした。おそらくは遠方で足の悪い母を気遣っていたのだと思います。

旅立ちに歌を

病状の悪化とともに全身の疼痛が現れます。スタッフへ、「そこに座っていて欲しい」「手を握って欲しい」とナースコールを握りしめて訴えます。元気だった頃なら絶対に言わないだろう言葉でした。出前の食事さえも手をつけなくなっていったその夜、Aさんの意識は薄れていきました。DNRに同意していたAさんには救命処置はせず、ただスタッフは意識混濁したAさんの手を握り、寄り添い、吉田拓郎の歌を歌いました。その後、間もなく最期の時を迎えました。お迎えの車が来るまでのわずかな時間。デイルームでギターを弾いていたAさんの姿が目に浮かびます。苦しい闘病生活を耐え抜いたAさんへの想いが溢れた夜勤の看護師は、おもむろにAさん愛用のギターを手にとります。弾き始めた曲は吉田拓郎の『全部抱きしめて』。

私たちスタッフはこの「死」をきっかけに身体・精神的苦痛の緩和、家族愛について改めて考えましたが、何よりも「ただ傍にいる看護」の意味を感じることが出来ました。

若い頃からギターと共に人生を送り、歌手を夢見た事もあったかもしれません。あまり表には出さない方でしたが、孤独や統合失調症に伴う症状に苦しむことも多かったといいます。自分の意志で手術しないと決め、もしかしたら後悔していたのかも知れません。

私たちは穏やかな表情で逝ったAさんに今でも想いを巡らせます。

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